File03 牟田和美氏(有限会社 野球鳥代表取締役)

「本格派 炭焼やきとり処 ひろしま カープ鳥」を、広島市内に直営店、フランチャイズ店合わせて10店舗展開。昭和55年にオープンして以来、焼鳥の串メニューにそれぞれカープの選手名をつけるという遊び心で、カープファンの集う店として広島の定番となっている。

「焼鳥なら一生飯を食っていける。」決めた瞬間

社員O

転機となったのはいつでしたか?

牟田

今の焼鳥屋になろうと決めた大学卒業のときですかね。当時は就職も売り手市場でしたが、実家が商売をしていた影響で、自分の何かで飯を食っていきたいという想いがあって、就職する気にはなりませんでした。そんな話を先輩にすると、面倒看てやるから、大阪や東京で見聞を広めて来いと言われたんです。私が21歳、先輩は31歳でした。先輩が仕事で大阪に来た際には一緒に、高架下の焼鳥の屋台で飲んで帰るというのがお決まりコース。先輩が、「商売を始めるなら一生飯が食えるものにせんといけんで」と言った時、ちょうど焼鳥を食べながら、「焼鳥なら一生飯を食っていける。よし、やろう!」とその場で焼鳥屋になると決めたんです(笑)卒業したらすぐに、焼鳥屋に就職しました。

社員O

通っていたその店に就職を決めるなんてすごいですね。急に焼鳥屋になろうと決意して、大変なことも多かったんじゃないんですか。

牟田

修業は一年間と期限を自分で決めて始めました。卒業後すぐ結婚もしましたし、一年後には広島で店を出すために死に物狂いで勉強しましたよ。もらった給料は全て焼鳥につぎ込んでいましたし(笑)

社員O

全てですか (笑)家賃はどうやって払っていたんですか。

牟田

当時手取りで15万円。最初の2カ月で家賃は払えなくなりましたね。悪い先輩ができたものです(笑)でも、そのおかげで大阪、京都、神戸、ほぼ全ての焼鳥屋を回って勉強することができました。「焼鳥の修業に使っているんだから文句ないだろ」と言うと、妻が何も言わずに家賃を払ってくれていました(笑)それから一年経った、翌年6月には広島に帰り、その後半年ほど修業して、11月には「野球鳥」を開店しました。

キャッチボールで苦境打開

社員O

その頃からもう野球選手との交流があったのですか?

牟田

当時から応援団もやっており、高橋慶彦選手とは同年代だったので入団当初から付き合いはありましたね。そのつながりで、今もカープ選手とは付き合いがあります。

社員O

念願のお店を出してみて、思っていたのとは違うなんてことはなかったですか。

牟田

同じく店を経営している兄のおかげもあり、オープン当初は順調だったのですが、それも長続きせず、3カ月後には経営が厳しくなりました。他の店舗がにぎわっている中、一向に戸が開かないようなあり様。みんな意気消沈してどんどん雰囲気も悪くなってくるので、ついには待っていてもしょうがないと外へ出て、キャッチボールを始めました(笑)

社員O

キャッチボールですか(笑)そんな逆境をも楽しめてしまうことがすごいですね。

牟田

その頃は、応援団の後輩に、安い給料でしたが、飯だけはいくら食べてもいいと、と言って店を手伝わせていましてね。客が来ない中、みんなのテンションをどう維持するかを考えたものです。店自体がどんよりした雰囲気になっていては、食べている方もおいしくない。その点、キャッチボールはとても効果的で、いざお客さんが来ると、そのテンションのまま仕事に臨める訳ですから、みんな元気な顔で仕事ができる。

社員O

なるほど(笑)素晴らしい発想の転換ですね。

全ては人のおかげ

牟田

その当時は、仕事が終わると毎日、スタッフを連れて飲みに行っていました。家庭を疎かにしていたため、女房にはよく怒られましたが、私たちが飯を食えているのは、彼らスタッフのおかげですからね。自分の給料が出せない時でも、彼らには給料を払うと決めていました。そのおかげか昭和55年12月の開店翌月に入店したスタッフが今も在籍してくれています。今思えば店のスタッフにも恵まれたんですね。

社員O

今のように多店舗経営されるにいたったきっかけは何だったのですか。

牟田

それも人のおかげです。もう赤字続きで、さすがに兄にも店をたためと言われていた、ちょうどその頃、大橋巨泉さんや藤本義一さんなどが司会をしていた『11PM(イレブン・ピーエム)』という全国放送の深夜番組で生中継されることになったんです。昭和58年、カープが優勝に絡んだ際、彼らが広島で3元生中継を行った、その一店舗に偶然選ばれたんです。その放送後、カープファンが集う店としてブレイク。それまでは、表でキャッチボールしていたにもかかわらず、急に年商が一店舗一億円にもなったんです(笑)

社員O

それはすごいですね。

牟田

その当時一緒に店をやっていた社員五人全員が、今ではそれぞれ経営者になっています。みんなその頃から商売をしたいと思っているやつらばかりで、揃いも揃って前向き(笑)やるべきことが、分かっているから動きも早いんですよ。そんなスタッフの協力もあって、以降次々店舗を増やしていくことができました。今思えば、就職も経営も全て尊敬する先輩や、スタッフといった周りの人のおかげだとつくづく感じますね。

社員O

だから人を大切にされているんですね。

必ず夢を持って何事もあきらめないこと

社員O

4月の前田健太投手がノーヒットノーランを成し遂げた際には、来店者全員に一杯ごちそうされたんだとか。

牟田

よく知ってますね(笑)たらいに張った水を自分の所に寄せようとしたら、水は全部向こう側に逃げて行くでしょう。逆に向こう側へ遣ろうとしたら、水は自分へ返ってくる。人間関係もその「たらいの水」と同じで、先にやってあげたら必ず、自分にも返ってきます。それが商売というものだと思っています。

社員O

いつも自分らしくいるために努力していることはありますか。

牟田

中国の故事に、『人間万事塞翁が馬』というものがあります。これは、幸福や不幸は予想のしようのないことの例え。どんな時でも、悪いことがあれば、必ず良いことがあり、何が幸運に働くか分からないということです。でも、どうしても嫌なことがあった時には、いつまでもくよくよ悩まないように工夫します。何か物が壊れて急な出費がでたときは、流川に十日間飲みに行ったことにしようとかね。置き換えて気持ちの清算をするんです(笑)

社員O

なるほど(笑)

牟田

でもやはり一番大切なのは、夢を持って何事もあきらめないこと。あきらめなければ、必ず成功します。よく言われることですが、これだけは確かだと私自身確信しています。今まで大変なことがたくさんありましたが、自分が本当にやりたいことのためなら本気で頭を下げることができた。無理だと思ったら、そこで終わってしまいます。神様は越えられないハードルは与えないんです!

2012.6 掲載

えんぎもん 自分を守る干支の999.9(フォーナイン)コインのペンダント

「おしりのポケットに入れていて少し曲がってしまったんですけど(笑)」と紹介してくださったのは、寅が刻印された999.9コインのペンダント。999.9コインとは、限りなく100%に近い純金のことです。「いつものジーパンにグリーンのハンカチ」というように、験担ぎを大切にされている牟田さん。このペンダントもその一つなのだそう。さらに、このペンダントで重要なのはその刻印が「寅」であること。「私は申年生まれなので、向かい干支が寅なんですよ。」向かい干支とは、十二支を円に並べたときに、自分の干支の向かい側にくる干支で、自分の干支と正反対の性質をもっているため、自分にはないパワーを与えてくれると言われています。「5才年上の先輩が、向かい干支のコインを持っていると良いことがあると教えてくれて以来ずっと持っているんですよ。」今でも肌身離さず持っているペンダントは、義理人情に厚い牟田社長そのものを表しているようです。

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