file23 見延典子氏

1955年北海道札幌市生まれ。小説を書き始めたのは高校生の頃で、小説『指』が北海道新聞社主催の文芸賞に入選。早稲田大学に進み、卒業論文で『もう頬づえはつかない』を執筆。この小説は、講談社から出版され、50万部を超えるベストセラーになる。 1981年、結婚を機に広島に移住、執筆活動を続ける。江戸後期の歴史家で思想家・文筆家でもある頼山陽の研究を長年続け、2001年、日記評伝『すっぽらぽんのぽん』で頼山陽記念文化賞を受賞。2008年には、頼山陽の生涯を追った小説『頼山陽』で、新田次郎文学賞受賞。さらに広島文化賞、広島市民賞も受賞されている。 そのほかの著書には『汚名』『敗れざる幕末』『竈さらえ』『平家物語を歩く』などがある。

学生時代は相当生意気だったと思います。

――

小説家をめざしたのはいつからですか?

見延

もともと運動ができるタイプではないし、かといって本を読むのが特別好きというわけでもなく、ただ、書くことが好きでした。作文の時間が大好きで、自分が書いたものをみんなの前で読むことが喜びでしたね。高校は文芸部、大学が早稲田大学の第一文学部文芸科。なので、10代の頃にはなんとなく自分の中で物書きという目標があったんだと思います。

――

早稲田というと文化人輩出学校みたいなところがありますよね。

見延

作家希望の学生が増えてきたため、私が入学する10年ほど前にできたのが「文芸科」だったようです。周りは変な人がいっぱい(笑)。その後有名になった方の中には、詩人の荒川洋治さん、2年先輩に中島梓(栗本薫)さんがいらっしゃいました。2大スターですね。後輩には小川洋子さんや角田光代さんらがいたと思います。

――

さすがにそうそうたる顔ぶれです。

見延

みんな生意気でしたね、とにかく。わたしも相当生意気だったと思いますけど。3年生の時、大学が費用を出して文芸誌をみんなで編集するという授業があるんです。そこではそれぞれの作品のけなし合いですよね。とにかく「わたしが1番」なんですから。

――

そして在学時代に作家としてデビューされたわけですね。

廣瀬

卒業制作で書いたのが『もう頬づえはつかない』だったんです。これは幸運にもヒット作となりました。ただ、卒業後、結婚して広島に移住しました。すぐに子どもができたこともあって、小説は書き続けていましたが、自分の中でも納得できる作品にはならなくて、いまでは抹消してしまいたいくらいです。認められたデビュー作に比べあまりに落差が激しくて、求められるものも書けないし、重荷に感じてたところもありました。その頃には自分の中でもかなり葛藤がありました。小説を書き続けていくのかどうかと。

それでも書き続けてきたのはどうしてでしょう?

見延

ある人が言ってたんですけど「50万部も60万部も売れたのなら10年間は見延さんのことをみんな気にしてくれてる。10年間人が覚えていてくれるというのはすごいことなんだ」と。それで、勇気が持てたり迷いがふっきれたりしました。実際に、講談社の編集者が時々訪ねてきてくださったり、気にかけてもらってたのも、そういうことなんだと思います。

小説家と母親の両立は難しいことでしたか?

見延

やっぱり小説を書くっていうことは、かなり集中しなくてはできないし、育児をしてて、中途半端に一日2時間か3時間書いても、無理なんだなと気付きました。なかには、家族と離れて・・・という作家もいらっしゃいますが、自分にはそこまでの覚悟はなかったです。

Hint! file23 見延典子氏

わたしは頼山陽に対しては上から目線なんです。

――

再び精力的に書きはじめたのが歴史小説でした。

見延

頼山陽って、めちゃくちゃな青少年時代を送った人で、不良だったんです。今でも頼山陽その人を私は好きではないんですけど、そんなしょうもない子供を、いったいどうやって育てたんだろうって、自分自身とオーバーラップさせてみることができました。だから、最初に書いたのが山陽のおかあさんのことでした。山陽のことはどうでも良くって、お母さんが日記を残していたので、日記に出てくる子育て方法を学ぼう、と思いやがていろいろ調べでいき書き上げたのが『すっぽらぽんのぽん』なんです。だからわたしは、頼山陽に対しては上から目線なんです。お母さんの気分で(笑)。

――

頼山陽に注目したきっかけは?

見延

せっかく広島に来たんだから、広島の歴史を調べようと思い、いろいろ活動している中で、「山陽は不良だった」という話を聞いたのがそもそものきっかけです。そのきっかけも実は間違いから生まれたのだから、わからないものですよね。ある時、頼山陽の資料館(広島市中区)を訪れたんですね。そこでやっていたのが古文書研究会で、そんな気はなかったのに気が付いたらその会にひっぱり込まれて、3か月拷問のような時間を過ごしました。日常の文章すら満足に読めないのに、山陽の時代の原文を読むわけです。苦痛以外の何物でもなかったのですが、人が読む内容は、しっかりわかるわけです。いやいやながらそれを続けたおかげで山陽の生涯はだいたいわかっています。自分があらわした頼山陽の物語は、大筋まちがっていないという自信はありますね。

――

小説を書く魅力はどこにありますか?

見延

もともと大まかな設計図はあるんですが、書いているうちに思いがけないものが出てきます。自分の言葉や自分の感情にあふれてくるものがあって、書くはずじゃなかったことが出て来て、物語がどんどん勝手に進んでいく。そんな感じです。書いている間は日々驚きの連続ですね。頼山陽を書いたのは40代~50代にかけての時期、2~3年かかったわけですが、自分の誕生日も忘れてて、気が付いたら歳だけ取ってた、というくらい密度の濃い時間を過ごしていました。

――

スランプ、というか書けなくなることもあるんですか?そんな時はどうされますか?

見延

全然違うことをやってみるんです。わたしの場合、絵を描いています。いつか俳句の句集を出そうと思っているんですが、そこに絵を添えるのに、作家さんに頼むと高いので、自分で描いてやろうと。習い始めて、毎年1回展示会があるんですけど、あるとき「売ってください」という方が現れたんです。そこでも新しい友達ができて、今度はリンパマッサージに通ったり・・・。いろんな展開へと広がっていくんですね。いろんなヒントがそれぞれにあると思います。それまでなかったことに行動範囲を広げてみたらいいと思います。

Hint! file23 見延典子氏

2017.10 掲載

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見延さんの近作『汚名』は「幕末、困窮を極めた広島藩が贋金つくっていた」という実話をもとに、その黒幕であった人物がやがて広島市長になり、また関わった一人(=主人公)が医者として広島で開業し、さまざまな事件に直面するというお話。幕末からやがて軍都となる広島の喧騒を背景に、わたしたち広島人としてとても引き込まれる物語になっています。この作品の中でもさまざまなキャラクターが見延さんによりイキイキと描き出されますが、そのなかで気になっていたのが主人公の異母弟でやんちゃを極める「省吾」という人物。インタビューを続ける中で、「主人は呉の三津田高校で、ちょうど浜田省吾さんたちの世代です」というお話によもや!と思い「省吾って出てきますけど・・・」と聞くと、見延さん嬉しそうに「そうなのよ。絶対に省吾の名前は使いたかったの」としてやったりの表情。コンサートやファンクラブイベントにもその都度参戦する浜省ファンの見延さん。物語のなかの「省吾」は、浜田省吾さんとは似ても似つかない悪役ぶりですが、最後は哀しい人間味を演じてくれます・・・が、そこはネタバレになるので、ぜひ小説を読んでみてください。 現在は、次作を準備中。頼山陽から始まって幕末、明治へ。だんだん現代史に近 づく見延典子さんの次回作が、ますます楽しみです。

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