file18 部谷京子氏(美術監督/広島国際映画祭 代表)

広島市南区出身。武蔵野美術大学造形学部卒業。在学中から円谷プロダクションに美術助手として参加し、映画『シコふんじゃった。』(92年)で美術監督デビュー。現在までに11回の日本アカデミー賞優秀美術賞を受賞し、『Shall we ダンス?』(96年)『それでもボクはやってない』(06年)で最優秀美術賞を受賞している。美術監督の活動に対して「エイボン芸術年度賞」「小倉佐伯賞」などを受賞。08年には広島市民賞を授与された。また、福屋八丁堀本店8階の映画館『八丁座』内装デザインを手掛け、「広島国際映画祭」の代表も務めている。
広島国際映画祭 公式ウェブサイト

やる気を見せるしかなかった

――

美術監督になったきっかけを教えてください。

部谷

偶然なんです。大学在学中は常にアルバイトをしている毎日だったんですけど、偶然そこで出会ったのが円谷プロダクションの美術助手でした。学校で勉強していることと違ったプロの現場の臨場感があって、自分が作った物がテレビに映し出されたのを見たときに、全身が震えるような感動を受けました。これが天職だと思いましたね。

――

元々、美術監督になろうと思っていたわけではないんですね。

部谷

東京に行きたかったからです(笑)。私の中には広島から出るとしたら東京しかなかった。元々、絵を描いたり物を作ったりするのが好きだったので、美術系の道を選びました。

――

映画業界での下積み時代は苦労されたと思います。

部谷

いきなり実戦の場に入ったので、見よう見真似で仕事をしていました。スキルは十分ではなかったけど、とにかくやる気を見せる。だけど、毎日「明日から来なくていい!」と言われていましたよ。それでもやる気を見せるしかなかったので、誰よりも早く現場入りしたり…。先に行っていないと入れてもらえないじゃないですか(笑)。とにかくハードスケジュールだったので、家に帰った記憶はあまりないですね。

Hint! file18 部谷京子氏

映画界はエキサイティング

――

現場で学んだことを教えてください。

部谷

ある時、FRP(繊維強化プラスチック)で小物を造っていたんですが、時間を節約しようと硬化剤をドバドバ入れたんです。しばらくして、表からドカン!と大きな爆発音が聞こえて…。分量を無視したから化学反応が起きちゃったんです。この事件以来、適量を守ることの大切さを学びました。それに、一度大きな失敗をしてしまったのが、その後の自信にもなりましたね。

――

命懸けの教訓ですね(笑)。

部谷

あとは、人間関係ですね。実際に人と人との繋がりで次の仕事が決まって、ひとつの作品が生まれていく。その繋がりを大切にするために、頑張って期待に応えてきたんだと思います。大変な業界ですが、大変であればあるほど面白いですね。エキサイティングな経験を毎日させてもらいました。

――

助手時代を経て、美術監督デビューは『シコふんじゃった。』でしたね。

部谷

助手と美術監督ではやることが全く違います。美術に関する責任をすべて背負わないといけません。本当に私でいいの?と思いましたが、ここで頑張らないと次が無いという気持ちでした。初めて大きなセットを作ったのが、女性の上がることのできない聖域“土俵”でした。それを全員女性の美術チームで作ったんです。これができるのが映画なんだなと思いました。『シコふんじゃった。』の日々は今でも思い起こせます。

――

日本アカデミー賞を総ナメした『Shall we ダンス?』の思い出を聞かせてください。

部谷

色々な事情で、ラストシーンに出てくるダンスホールが借りられなかったんです。予算も時間も無くて、どうしようかと考えて、ダンス教室をダンスホールにしようと思いつきました。スタジオの壁に直接装飾をして、奥にステージを作って…苦肉のダンスホールです(笑)。出来上がったときは、「やったな」と思いました。その嬉しさは今でも覚えています。予算が無かったからこそ、大胆なことができたのかもしれません。

Hint! file18 部谷京子氏

黒澤明監督との狂詩曲

――

今まで一番影響を受けた人は誰ですか?

部谷

黒澤明監督ですね。円谷プロダクションの先輩たちが常々、一緒に仕事をしたいと言っていた監督ですが、じつは私、黒澤監督のことをあまり知らなかったんです(笑)。この業界には偶然入ったので、映画に詳しくなかった。それから黒澤監督の作品を観て、雲の上の存在なんだなと思うようになって、私も黒澤監督と仕事をするまでは続けようと思うようになりました。

――

そして実際、『夢』『八月の狂詩曲』で黒澤作品に関わりました。

部谷

幸いにも、打合せに参加できるチーフになりました。美術のプランを監督に見てもらうんですが、その前に演出部と相談して、例えば8通りぐらい用意するなかの、本当に見せたいものを3番目ぐらいに見せるとか色々と作戦を練っていましたね。

――

黒澤監督と直接話したことは?

部谷

『八月の狂詩曲』で、パイナップル農園のTシャツの打ち合わせを監督と直接しました。記念すべきパイナップルTシャツです(笑)。

――

印象に残っているエピソードを聞かせてください。

部谷

『夢』で三連の水車を作るために、大分県まで本物を見に行って、寸法もちゃんと図って格好よくできたんですが…回らなかった。水を流したら嫌な音がするんです。実際の心棒は鉄パイプだったんですが、木製で作ってしまったのが原因でした。いざ本番となって、補強はしたのですが、いつ壊れるのかと気が気ではありませんでした。

――

黒澤監督はそのことを知っていたんですか?

部谷

言いません(笑)。あと、影を描きました。広い庭で話をする長いシーンで、太陽が移動してしまい、小屋の影の位置が変わってしまうんですね。そこで、黒澤監督から「影を描いてくれ」と。墨汁を薄めて地面に小屋の影を描きました。

――

すごい発想ですね。

部谷

ロケだったんですが、周りを囲って光を間接照明にして、小屋の影を描く。初めての体験でしたね。またそういうことをやってみたい。黒澤監督は映画の面白さを改めて教えてくれたんです。

Hint! file18 部谷京子氏

「ダマー映画祭」から「広島国際映画祭」へ

――

これまで「ダマー映画祭inヒロシマ」の代表として広島で映画祭を開催しましたが、どういうきっかけがあったんですか?

部谷

ダマー映画祭はアメリカのシアトルで2001年に始まった映画祭です。そこで、日本人で唯一審査員をされていた佐倉寛二郎さんからアメリカの実行委員を紹介され「この映画祭を日本でもやりたい」と、なぜか私に相談されまして。東京にはいくつも映画祭があったのと、ちょうどその年に広島市民賞を頂いたので、これは広島でやるべきだと思ったんです。

――

映画祭の魅力を教えてください。

部谷

第一回目に、ノミネートされた若い監督やゲストと並んで、就任したばかりの湯﨑知事と秋葉市長にも来て頂きました。大勢のお客様、メディアの方もたくさん来て頂き、閉会式が終わったあとも会場は活気にあふれ、会場全体に広がった喜びの余韻が素晴らしかった。ボランティアの人たちも皆、もの凄い達成感があって、これが映画祭の力なんだなと感じました。

――

今年、「ダマー映画祭inヒロシマ」が「広島国際映画祭」(2014年11月14日~16日)に変わりますね。

部谷

もっと広島色を全面的に打ち出して、広島の心を映画祭を通して発信していきたい。映画と広島、私にとって本当に大切なものを融合させて、国内外から多くの人が訪れるような映画祭になってほしいと思います。そして、多くの人に映画館で映画を観る習慣を取り戻してほしい。映画はスクリーンで観ることを前提に作られています。この映画祭が、映画館に足を運ぶきっかけになってほしいです。

Hint! file18 部谷京子氏

2014.11 掲載

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